第20回…日本の唱歌はダサい!?
●「赤とんぼ」に感動
先日、こんな話をしていたお客さんがいたらしい。
「今日りゅーとぴあであったコンサートで、イタリア歌曲やオペラを聴かせてくれた後、最後にアンコールで『赤とんぼ』を歌ってくれたんです。それが一番感動しました」
「夕焼〜け こやけ〜の 赤と〜ん〜ぼ〜」
難曲のオペラのアリアより『赤とんぼ』に感動したという感覚、私にはすごくよくわかる。
日本の唱歌というと、若い世代には人気がなくて、「子どもっぽい」「古い」「ダサい」なんて思われているフシがある。
中高生の頃を思い出してみると、「歌といえば歌謡曲」(今で言うJ-POP)という人もいたし、「邦楽はダサい。洋楽に限る」と洋モノばかり聴いている人もいた。
「ロックほどカッコイイものはない」と言って、私にCDを聴かせては「どう? カッコイイよな」と言い続けた人もいた。
でも、「赤とんぼ最高! 赤とんぼほどカッコイイものはない」という人はいなかった。
もっとも、「イタリア古典歌曲が好き」「ナポリターナは最高」なんてマセた子もいなかったけれど。
私自身の当時の感覚でも、「赤とんぼを歌おう」と言われたら「え〜っ、どうしてそんなダサい歌、歌わなきゃならないの」と感じたと思う。
中学生が音楽の授業で唱歌を喜ばないのは、無理もない。
●年齢を重ねるとわかる「染み入る」
ところが、歳を重ねるにつれて、日本の古い歌の「旋律と言葉の美しさ」に“感じる”ようになってきたから、不思議だ。
本当の意味で唱歌を味わうのは、子どもには無理だったのだろうな。
確かに、「故郷を想う」なんてたいていの中高生にはイメージすらできないだろうし、「トンボ? モミジ? それよりDS(携帯用ゲーム)がいい」となるのは仕方ない。
しみじみと、神妙に、うっとりと、日本の唱歌を聴くようになるとは、私自身、想像もしていなかったし。
日本の唱歌には「染み入る」という言葉がぴったりだ。
●ブルー・スリー? アントニ・オイノキ?
古い歌を味わうには、それなりの教養も必要だ。
私はかつて、「七つの子」を「子どもがカラスに向かって問い掛けている歌」だと思っていた。
「カラス、なぜ鳴くの」と子どもがカラスに尋ねる。
すると、問われたカラスが「カラスは山に〜」と答える――
そういう歌だと思っていた。
「ブルース・リー」のことを「ブルー・スリー」と勘違いし、「アントニオ猪木」のことを「アントニ・オイノキ」だと思い込んでいたメイフェア店長と同レベルの恥ずかしさだ。
オイノキ……。
ところが、「七つの子は母と子の対話」だと言語学の先生に教わってから聴き方が変わった。
子「可愛い、可愛いとカラスは鳴くの?」
母「可愛い、可愛いと鳴くんだよ」
あぁ、なるほどなぁ。
この子はきっと7歳なのだ。だから母親は「カラスにもちょうどお前と同じくらいの、7歳の子がいるんだよ。親は7歳の子のことが可愛くてしかたないんだよ」と話して聞かせるのだ。
自らの気持ちに重ねて。
これを、子どもとカラスの会話と解釈したり、「七つの子」を「七つ子」だと思って、カラスの雛が巣に7羽いてビャービャー騒いでいるシーンを想像したりするのでは、深い味わいはなさそうだ。
そういえば『赤とんぼ』でも、「追われて見たのは いつの日か」と思い込んでいる人がけっこう多いらしい。
「追われて」って、犯罪者じゃないんだから。
つまり、歌の内容をちゃんと知った上で歳を重ねることによって、唱歌のすばらしさを「体で感じられる」ようになるのだろう。
日本の唱歌は、決してダサくはない。
味わいは、年を重ねるごとに深まっていく。
●日本の唱歌こそベルカントで
ただし、日本の唱歌に“感じる”には、ある共通の条件がある。
それは「ベルカントの澄んだ声で歌われたとき」。
ありがちの「横開きの潰れた声」「子どもっぽい開けっ広げの歌い方」で歌われた場合は、あいかわらず「ダサい」。
「赤とんぼ」に限って言うなら、ビブラート少なめのソプラノ独唱が最高かな。
どこまでも細く伸びていく、澄んだ高音。
つまりはベルカントだ。
日本の唱歌こそベルカントが合う。
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